「ヘッジファンドI」を読む(3)

f:id:aninvestor:20170211102833j:plain

セバスチャン マラビー(2012)「ヘッジファンド―投資家たちの野望と興亡〈1〉」  楽工社

本の概要(再掲)

ヘッジファンドの歴史の本。巷にあふれる「ヘッジファンド=悪」ではなく、(少し擁護的ではあるが)淡々とヘッジファンドの歴史について記載している点が特徴。

各時代を象徴する人物・ファンドについて1章を割きながら記述しているため、人物史的な面白さもある。

2011年、金融・経済分野でのジャーナリズムを表彰するジェラルド・ローブ賞を受賞。

以下面白かった部分を抜粋。

第3章~第5章

「第3章 ポール・サミュエルソンの秘宝」はチャーチスト(日本ではテクニカルアナリストと呼ばれる)であるコモディティズ・コーポレーションの章。

「第4章 錬金術師」はジョージ・ソロスに関する章。

「第5章 番長」はタイガー・マネジメントの創業者、ジュリアン・ロバートソンに関する章。

いずれの章も人物伝としては面白いが、投資に関する洞察という意味では特に目を引くポイントはなかったので引用はなし。3者とも手法はずいぶん違うものの、いずれも下記を原因として大きな成功を収めたといえる。

  • 個人の優れた直観を信じ、大胆なポジションをとる(ヘッジをしない)
  • 投資を実行していた市況が、各人の手法に非常にマッチしていた

直観を信じて大胆なポジションを取ること自体は、その人物の優れた知性・感性を示す例にはなるが、残念ながら再現性がないためあまり参考にならない。「直観」をより深く探っていけばそこから汎用性のある洞察が得られる可能性もあるが、残念ながら本書ではそこまでの深堀りはない。ソロスなどは、ウォーレンバフェットと同様、ソロス単独に関する書籍がいくつもあるので、そちらを読むことで彼の「直観」の源泉を理解するのがいいのかもしれない。

いずれにせよ、本書を読んだだけでは上記3者が本当に優れていたのか、それとも確率論的に外れ値をピックアップしただけなのかは判別不能。

第6章 ロックンロール・カウボーイ

 チューダー・インベストメント創業者のポール・チューダー・ジョーンズに関する章。1980年から投資を開始し、綿花のトレードから始まり日本への投資(空売り)など幅広く投資を実施。「逆張り投資家(コントラリアン)」として知られる。2014年にファンドを償還した。

綿花取引所のフロアにいたころから、彼(ジョーンズ)は他のプレーヤーのポジションを観察することの重要性を理解していた。大物投資家が現金のうえにふんぞり返っているのか、それともすでに思いきって資金を投じたのかを知っていれば、相場がどちらに動きそうかを見分けやすい。いかなる状況でもリスクとリターンのバランスを判断しやすい。ピットトレーダーは、ライバルたちが大声で注文を叫んでいるのが聞こえるから、彼らのポジションを知っていた。いったんフロアを離れると、ジョーンズは同じように市場に対する感触がつかめるよう、即興的にさまざまな方策を講じた。大手の機関投資家を顧客に持つブローカーに電話をかけ、現物ポジションをヘッジするために商品市場を利用する商社に連絡をとり、仲間のヘッジファンド・マネジャーと頻繁に話をした。(中略)だが、他の投資家がどうしているのかを知るだけでは不十分である。彼らがどうしたいのかー何が目的で、状況ごとにどう反応するのかを知る必要があった。日本のファンド・マネジャーが例の8%のハードルをクリアすることにこだわっていると知っていれば、1月に相場が下がったら彼らが債券に乗り換えるだろうと予想がつくわけだ。(p226)

市場参加者の誰が主要プレイヤーで、そのプレイヤーのインセンティブがどのようになっているかを見極めること。これをグローバルで実施したことがポール・チューダー・ジョーンズの強みだろう。彼はその洞察を元に日本のバブル崩壊時に株式市場のショート(空売り)で莫大な利益を手に入れた。

上記引用の「日本のファンド・マネジャーが例の8%のハードル」というのは、下記を参照。

日本の預金者はファンド・マネジャーに年8%のリターンを期待していたのだが、このハードルが重要視されたため、株式市場が反転(下落)するとファンド・マネジャーは防御のために債券になだれ込むのである。それならリスクフリーで8%の収益を確保できるからだ。(p223)

ここでは、日本のファンド・マネジャーが日本の債券市場の平均利回り(8%)を超えるために株式市場で運用を行っていた点が重要となる。株式市場が債券のリターンを上回る限り、これらのファンド・マネジャーは株式市場で運用を続ける(したがって株式市場全体の運用額も高止まり=株価も高止まり)。しかし、株式市場の利回りが悪化することが彼らの共有知識になってしまえば、彼らは株式市場から資金を引き揚げ、債券市場で安定運用に移行する。全員がそのような行動に走れば一気に株式市場から資金がなくなり株価は暴落する。この「8%」という水準を見極めた点がポール・チューダー・ジョーンズの慧眼だ。 

『ヘッジファンドI』を読む(2)

f:id:aninvestor:20170211102833j:plain

セバスチャン マラビー(2012)「ヘッジファンド―投資家たちの野望と興亡〈1〉」  楽工社

本の概要(再掲)

ヘッジファンドの歴史の本。巷にあふれる「ヘッジファンド=悪」ではなく、(少し擁護的ではあるが)淡々とヘッジファンドの歴史について記載している点が特徴。

各時代を象徴する人物・ファンドについて1章を割きながら記述しているため、人物史的な面白さもある。

2011年、金融・経済分野でのジャーナリズムを表彰するジェラルド・ローブ賞を受賞。

以下面白かった部分を抜粋。

第2章 ブロックトレーダー

マイケル・スタインハルトに関する章。スタインハルトは1967年に友人2名と共に「スタインハルト・ファイン・バーコビッツ」というヘッジファンドを立ち上げた。その後の11年間で、1,200%近くのリターン(年率換算で平均24.3%のリターン)というとてつもない成績を上げた。

成功要因その1:通貨データと株式市場の相関性への着目

スタインハルト・ファイン・バーコビッツの成功要因を説明するのは難しい。パートナーだった本人たちにも説明できない。だからといって、たんに運がよかったわけではない。このパートナーシップの歴史をよくよく調べてみると、ふたつの要因が浮かび上がる。それぞれの要因が、効率的市場理論の常識的な解釈に矛盾しないやり方で、成功の理由を説明してくれる。

スタインハルト・ファイン・バーコビッツでまず革新的だったのは、トニー・シルフォである。(中略)1960年代から、彼は通貨関連データを追跡しはじめていた。株式市場の変化を予測できるかもしれないと期待してのことだった。(中略)シルフォは金本位制以後の高インフレ社会における投資の法則を、そうした社会が完全に姿を現す前から把握していた。彼のおかげで、スタインハルト・ファイン・バーコビッツは株式相場の「ヘアピンカーブ」を予測できた。(p88-89)

現在のトレーダーは当然のように行っている、様々なマクロトレンドから株式市場がどのように変動するかを予測するモデルを、本格的にトレードに持ち込んだのが彼らだった。今から考えると当然の手法ではあるが、当時誰も金利政策と株式市場との相関などに目を向けていなかったことを考えると、正に「コロンブスの卵」といえる。

成功要因その2:ブロックトレーダーへの対応

第二のイノベーションは、金融情勢の新たな変化から始まった。(中略)資金運営のあり方の変化に対応したのである。

1960年代まで、株式市場は個人投資家が大半を占めていた。(中略)だが1970年には、企業年金の受給資格者は3倍以上に増加。年金基金の資産はなんと1,300億ドルに達し、年間140億ドルのペースで増えていた。

一方、個人投資家は直接保有する株式を売却し、その資金を新種の金融事業者に委託した。1960年代後半には、投資信託の運用資産は5,000万ドルを超えていた(1950年は200万ドル)。投資はもはや素人が紳士的ブローカーのアドバイスを受けてやるものではなく、プロフェッショナルなビジネスになっていった。

(中略)

大手の貯蓄機関は大口売買のマーケットメイクをする人間を必要とし、この業務にお金を払う用意があった。それも、かなりの金額をー。というのは、ほかに選択肢がなかったからだ。フォード株10万株を少しずつ売ろうとすれば売却するにつれて価格は下がるだろう。また、売却のニュースが途中で漏れれば、株の価値は急落するだろう。したがって貯蓄機関の側からすれば、かなりの割引を飲まざるをえないとしても、ゴールドマン・サックスオッペンハイマーに10万株すべてを渡した方がよい。

(中略)

そこにスタインハルト・ファイン・バーコビッツの出番があった。(中略)ゴールドマン・サックスオッペンハイマーからまとまった量の取引の申し出があると、スタインハルトは喜んで応じた。(中略)たいていの資産運用会社で売買を担当する下っ端トレーダーとはちがい、スタインハルトはみずからの権限で大きなリスクをとることができた。(p91-93)

状況の変化とそれに対する「マーケットメーカー」の立場の徹底が大きなポイントとなった。現在のビジネスモデルでいうところの「プラットフォーマー」に近い。市場にあらたなキープレイヤーが参加してきて構造が変化しつつある中で、そのキープレイヤーが望むこと(大口取引に対する安全な流動性確保)を徹底的に突き詰めること。これが大きな成功要因となった。

『ヘッジファンドI』を読む(1)

f:id:aninvestor:20170211102833j:plain

セバスチャン マラビー(2012)「ヘッジファンド―投資家たちの野望と興亡〈1〉」  楽工社

本の概要

ヘッジファンドの歴史の本。巷にあふれる「ヘッジファンド=悪」ではなく、(少し擁護的ではあるが)淡々とヘッジファンドの歴史について記載している点が特徴。

各時代を象徴する人物・ファンドについて1章を割きながら記述しているため、人物史的な面白さもある。

2011年、金融・経済分野でのジャーナリズムを表彰するジェラルド・ローブ賞を受賞。

以下面白かった部分を抜粋。

第1章 ビッグ・ダディ

ヘッジファンドの祖」「ビッグ・ダディ」と呼ばれるA.W.ジョーンズの章。市場全体の変動に左右されることなく、個別銘柄の上昇/下落から収益を上げる手法(「βを殺す」「αを取り出す」ともいわれる)を初めて確立。

マーケット・ニュートラル戦略の立案および実行

ヘッジポートフォリオを設計した彼は、次に、そのなかに入れる銘柄を選ぶ必要があった。スキルがどうか、性格が一致するかどうかによって、彼はウォール街随一の銘柄選択者(ストックピッカー)を集める方法を考案した。

自分自身はすぐれたストックピッカーにはなれない、とジョーンズにはわかっていた。投資にかけては新米であり、企業の詳しいバランスシートに興味をかき立てられることもない。そこで彼は、他人の力を最大限に利用するシステムを作った

(中略)

ジョーンズは 、彼ら(ブローカー)の選択案がどれだけ成績を上げたかに応じて報酬を支払った。ブローカーたちの最新のアイデアをライバルより早く手に入れるには格好の方法だった。

このシステムが、ジョーンズの競争上の強みとなった。1950年代のウォール街は、退屈でおもしろみのない場所だった。大学やビジネススクールで金融の口座をとる者はないに等しく、ハーバード大の投資講座は「真昼の暗黒」と呼ばれた。(人気の高い科目に教室を確保するため、不人気なランチタイムを大学からあてがわれたから)。投資機関の受託者は、運用成績よりも運用資産額で評価され、合議形式で意思決定をした。ジョーンズの手法はこの古いやり方を打破した。一人ひとりのストックピッカーの実力勝負であり、集団主義のかわりに個人主義、自己満足のかわりにアドレナリンが重視された。

(p61-62)

 A.W.ジョーンズは2つの点でヘッジファンドの祖を築き上げた。

  1. ある銘柄が「割安」に放置されているとして購入する場合、「似ているが割高の」銘柄を空売りすることで、市場全体の変動リスクをヘッジした。現在もよく用いられる「マーケット・ニュートラル」といわれる代表的なヘッジファンドの戦略である。
  2. 上記のような戦略を立案しただけでなく、そのような戦略を実行に移すための「仕組み」を構築した。マーケット・ニュートラルの肝は、投資担当者が調査に調査を重ねて「割安もしくは割高な」銘柄を見極める点にある。そのような努力・研鑽を引き出すために、従来の手法とは根本的に異なるインセンティブ設計をした。

今では当然の話かもしれないが、当時の状況を鑑みるとその先見性は非常に興味深い。

競合の台頭

どんな偉大な投資家の競争優位性も、遅かれ早かれ解明される運命にある。ジョーンズの技法はライバルたちに模倣された。彼はもはや、自分が市場よりも効率的であると主張することはできない。尋常でない利益をあげたせいで、パートナーのあいだには資金分配に関する不満が生まれていたため、ふたりが離反すると、あとを追う者が必然的に相次いだ。1968年の初めには、彼のまねをしたファンドが40あったという。1969年には、その数200ないし500。(p67)

(中略)

20年たって、ジョーンズの投資手法は優位性を失った。市場がついに彼に追いついたのである。(p72)

どんなに優れた手法であったとしても、すぐに競合が生まれる。これは投資だけでなくビジネス一般にあてはまる原則だが、ヘッジファンドの世界では致命的になることが多々ある。ヘッジファンドが、えてして「だれも知らない裁定機会」で収益を上げているからだ。裁定機会を皆が知るようになると、そのチャンスはすぐに失われてしまう。

ジョーンズは「仕組みの創案者」という名声というブランドを確保していたため、20年もったが、それは運がよかったとみるべきだろう。