『ヘッジファンドI』を読む(1)

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セバスチャン マラビー(2012)「ヘッジファンド―投資家たちの野望と興亡〈1〉」  楽工社

本の概要

ヘッジファンドの歴史の本。巷にあふれる「ヘッジファンド=悪」ではなく、(少し擁護的ではあるが)淡々とヘッジファンドの歴史について記載している点が特徴。

各時代を象徴する人物・ファンドについて1章を割きながら記述しているため、人物史的な面白さもある。

2011年、金融・経済分野でのジャーナリズムを表彰するジェラルド・ローブ賞を受賞。

以下面白かった部分を抜粋。

第1章 ビッグ・ダディ

ヘッジファンドの祖」「ビッグ・ダディ」と呼ばれるA.W.ジョーンズの章。市場全体の変動に左右されることなく、個別銘柄の上昇/下落から収益を上げる手法(「βを殺す」「αを取り出す」ともいわれる)を初めて確立。

マーケット・ニュートラル戦略の立案および実行

ヘッジポートフォリオを設計した彼は、次に、そのなかに入れる銘柄を選ぶ必要があった。スキルがどうか、性格が一致するかどうかによって、彼はウォール街随一の銘柄選択者(ストックピッカー)を集める方法を考案した。

自分自身はすぐれたストックピッカーにはなれない、とジョーンズにはわかっていた。投資にかけては新米であり、企業の詳しいバランスシートに興味をかき立てられることもない。そこで彼は、他人の力を最大限に利用するシステムを作った

(中略)

ジョーンズは 、彼ら(ブローカー)の選択案がどれだけ成績を上げたかに応じて報酬を支払った。ブローカーたちの最新のアイデアをライバルより早く手に入れるには格好の方法だった。

このシステムが、ジョーンズの競争上の強みとなった。1950年代のウォール街は、退屈でおもしろみのない場所だった。大学やビジネススクールで金融の口座をとる者はないに等しく、ハーバード大の投資講座は「真昼の暗黒」と呼ばれた。(人気の高い科目に教室を確保するため、不人気なランチタイムを大学からあてがわれたから)。投資機関の受託者は、運用成績よりも運用資産額で評価され、合議形式で意思決定をした。ジョーンズの手法はこの古いやり方を打破した。一人ひとりのストックピッカーの実力勝負であり、集団主義のかわりに個人主義、自己満足のかわりにアドレナリンが重視された。

(p61-62)

 A.W.ジョーンズは2つの点でヘッジファンドの祖を築き上げた。

  1. ある銘柄が「割安」に放置されているとして購入する場合、「似ているが割高の」銘柄を空売りすることで、市場全体の変動リスクをヘッジした。現在もよく用いられる「マーケット・ニュートラル」といわれる代表的なヘッジファンドの戦略である。
  2. 上記のような戦略を立案しただけでなく、そのような戦略を実行に移すための「仕組み」を構築した。マーケット・ニュートラルの肝は、投資担当者が調査に調査を重ねて「割安もしくは割高な」銘柄を見極める点にある。そのような努力・研鑽を引き出すために、従来の手法とは根本的に異なるインセンティブ設計をした。

今では当然の話かもしれないが、当時の状況を鑑みるとその先見性は非常に興味深い。

競合の台頭

どんな偉大な投資家の競争優位性も、遅かれ早かれ解明される運命にある。ジョーンズの技法はライバルたちに模倣された。彼はもはや、自分が市場よりも効率的であると主張することはできない。尋常でない利益をあげたせいで、パートナーのあいだには資金分配に関する不満が生まれていたため、ふたりが離反すると、あとを追う者が必然的に相次いだ。1968年の初めには、彼のまねをしたファンドが40あったという。1969年には、その数200ないし500。(p67)

(中略)

20年たって、ジョーンズの投資手法は優位性を失った。市場がついに彼に追いついたのである。(p72)

どんなに優れた手法であったとしても、すぐに競合が生まれる。これは投資だけでなくビジネス一般にあてはまる原則だが、ヘッジファンドの世界では致命的になることが多々ある。ヘッジファンドが、えてして「だれも知らない裁定機会」で収益を上げているからだ。裁定機会を皆が知るようになると、そのチャンスはすぐに失われてしまう。

ジョーンズは「仕組みの創案者」という名声というブランドを確保していたため、20年もったが、それは運がよかったとみるべきだろう。