『ヘッジファンドI』を読む(2)

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セバスチャン マラビー(2012)「ヘッジファンド―投資家たちの野望と興亡〈1〉」  楽工社

本の概要(再掲)

ヘッジファンドの歴史の本。巷にあふれる「ヘッジファンド=悪」ではなく、(少し擁護的ではあるが)淡々とヘッジファンドの歴史について記載している点が特徴。

各時代を象徴する人物・ファンドについて1章を割きながら記述しているため、人物史的な面白さもある。

2011年、金融・経済分野でのジャーナリズムを表彰するジェラルド・ローブ賞を受賞。

以下面白かった部分を抜粋。

第2章 ブロックトレーダー

マイケル・スタインハルトに関する章。スタインハルトは1967年に友人2名と共に「スタインハルト・ファイン・バーコビッツ」というヘッジファンドを立ち上げた。その後の11年間で、1,200%近くのリターン(年率換算で平均24.3%のリターン)というとてつもない成績を上げた。

成功要因その1:通貨データと株式市場の相関性への着目

スタインハルト・ファイン・バーコビッツの成功要因を説明するのは難しい。パートナーだった本人たちにも説明できない。だからといって、たんに運がよかったわけではない。このパートナーシップの歴史をよくよく調べてみると、ふたつの要因が浮かび上がる。それぞれの要因が、効率的市場理論の常識的な解釈に矛盾しないやり方で、成功の理由を説明してくれる。

スタインハルト・ファイン・バーコビッツでまず革新的だったのは、トニー・シルフォである。(中略)1960年代から、彼は通貨関連データを追跡しはじめていた。株式市場の変化を予測できるかもしれないと期待してのことだった。(中略)シルフォは金本位制以後の高インフレ社会における投資の法則を、そうした社会が完全に姿を現す前から把握していた。彼のおかげで、スタインハルト・ファイン・バーコビッツは株式相場の「ヘアピンカーブ」を予測できた。(p88-89)

現在のトレーダーは当然のように行っている、様々なマクロトレンドから株式市場がどのように変動するかを予測するモデルを、本格的にトレードに持ち込んだのが彼らだった。今から考えると当然の手法ではあるが、当時誰も金利政策と株式市場との相関などに目を向けていなかったことを考えると、正に「コロンブスの卵」といえる。

成功要因その2:ブロックトレーダーへの対応

第二のイノベーションは、金融情勢の新たな変化から始まった。(中略)資金運営のあり方の変化に対応したのである。

1960年代まで、株式市場は個人投資家が大半を占めていた。(中略)だが1970年には、企業年金の受給資格者は3倍以上に増加。年金基金の資産はなんと1,300億ドルに達し、年間140億ドルのペースで増えていた。

一方、個人投資家は直接保有する株式を売却し、その資金を新種の金融事業者に委託した。1960年代後半には、投資信託の運用資産は5,000万ドルを超えていた(1950年は200万ドル)。投資はもはや素人が紳士的ブローカーのアドバイスを受けてやるものではなく、プロフェッショナルなビジネスになっていった。

(中略)

大手の貯蓄機関は大口売買のマーケットメイクをする人間を必要とし、この業務にお金を払う用意があった。それも、かなりの金額をー。というのは、ほかに選択肢がなかったからだ。フォード株10万株を少しずつ売ろうとすれば売却するにつれて価格は下がるだろう。また、売却のニュースが途中で漏れれば、株の価値は急落するだろう。したがって貯蓄機関の側からすれば、かなりの割引を飲まざるをえないとしても、ゴールドマン・サックスオッペンハイマーに10万株すべてを渡した方がよい。

(中略)

そこにスタインハルト・ファイン・バーコビッツの出番があった。(中略)ゴールドマン・サックスオッペンハイマーからまとまった量の取引の申し出があると、スタインハルトは喜んで応じた。(中略)たいていの資産運用会社で売買を担当する下っ端トレーダーとはちがい、スタインハルトはみずからの権限で大きなリスクをとることができた。(p91-93)

状況の変化とそれに対する「マーケットメーカー」の立場の徹底が大きなポイントとなった。現在のビジネスモデルでいうところの「プラットフォーマー」に近い。市場にあらたなキープレイヤーが参加してきて構造が変化しつつある中で、そのキープレイヤーが望むこと(大口取引に対する安全な流動性確保)を徹底的に突き詰めること。これが大きな成功要因となった。